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2005/01/14(金)

ひさしぶりに過去を振り返ったついでに、サイト立ち上げ直前に書いた文章を読み返してみた。いやー、文体、変わりまくりだなあ。

ここしばらく、と言ってもサイトを立ち上げてからだから、ほんの2年半かそこらだが、文章を書く際に文体上の縛りをいくつか付けている。その1つが「である調禁止」。文章の終わりを「〜である」で終わらせてはならない、という縛りだが、立ち上げ当初の文章はどれもこれも「である調」使いまくりだ。いま読み返してみると、「うあああ俺ってダメダメじゃん」と、いきなりパソコンの電源切って逃亡したくなる。

文体の分類といえば、まず「ですます調」「だ・である調」という2大分類が思い浮かぶ。最近ではどうなのか知らないが、私が中学生だったか小学生だったかの時は、文章は大きく分けてその2種類の文体がある、という風に教えられた(ように思う)。小学生だったのはかな〜り昔のことなので記憶がやたら曖昧だが、とにかくそう習ったような気がする。

しかし自分で小説なんか書いたりするようになると、どうもこの2種類に分ける方式はうまくないように感じる。むしろ3種類に分けるべきなのではないか。すなわち、

の3つだ。

「ですます調」は丁寧文を書くために使うから分けて良いとして、「だ調」と「である調」を分ける理由は何か。

自分でもうまく説明できないのだが、「だ調」と「である調」では、文章のスタンスというか、その文が書かれた状況が違うような気がする。「だ調」は状況をそのまま描写する文、「である調」は誰かが他人に向かって説明している文、という感じだ。偉い先生が大学かどっかで講義しているような感じ。

うむ、どうもポイントを掴みきれていないな。

と言ったらどうだろう。つまり「である調」は、「書き手である私が、読み手であるあなたに対して伝えます」という事を明確に主張している文章だと思うのだ。対して「だ調」は、「読み手の存在なんて知らん。とにかく、これこれこういう状況/情景/状態なんだよ!」という自己完結型の文章のように感じる。

なんでそれが問題なのか? なぜなら、小説の中で「である調」を使うと言うことは、「読者が存在している、ということを私(書き手 or 主人公)は認識しています」と言ってしまうのと同じ事だからだ。そんな小説世界の外側に飛び出してしまうような事を書いたら、下手するとそれまでに築き上げた物語の雰囲気ぶち壊しになる。登場人物が読者に語りかける小説なんて、もう小説とは言わないんじゃないか。よほど上手く書いてあるならともかくだが。

歴史小説なんかだと、事物の説明を「である調」で書くのはあまり違和感なかったりするが。たぶん、現実と小説の境目を曖昧にするという効果があるのだろう。

ともかくそう言うわけで私は、文章を書く際にはなるべく「である」で終わらないように気をつけるようになった。最近ではそれが普通になり、それどころか小説を読んでいても、「である」で終わる文章を見かけると違和感を感じるまでになってしまった。

しかしそうやって「である禁止」を続けていると、やっぱり欲求不満が溜まるものらしい。そう、たとえて言えばそれは、「食事のメニューにゆでたまご禁止」みたいなものだ。ゆでたまごの1つや2つ、喰わなくたってどうって事はない。しかしそれが1年続き、2年を超えるとなると、何だかたまにはハメを外したくなる。なるんだってば。

で、ついに去年、「である調書きまくり」な妄想を書いてしまった。「緊張を弛めて息を継ぐであろう」「掌の位置が元に戻ったのであるから」「それなりに変形しているであろう」「明朗で気さくなお姉さんであるが」などなど、「である(というかその変形)」を使いまくり。ああ、すっきりした。

いちおう断っておくが、ゆでたまごに何か恨みがあるわけではない。今夜も1個喰ったし。あえて言えば、喰う前にこれを挿れるための女が欲しいな、とか。その場合はゆでたまごは少なくとも2個用意することになるだろうけど。3個挿れるのは、ちょっと難しいかな? いや、いけるか。じゃあ3個用意する。そのくらいは挿入らなきゃ、馬とは無理だろ(そ、そうか?)。

文体の話は、次回に続く。


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