(一)加代という女がいたこと

人里からはずれかけた山あいにある小さな集落の、そのまたはずれのあたりに、加代と平太という姉弟が住んでいた。平太は今年15歳で、まだ顔立ちに幼さを残してはいるものの、もう一人前といってよい立派な青年だった。加代は19歳で、嫁いだ先の家から去年の秋の終わりに出戻ってきたところだった。夫が死んで、子供もなかったからだが、もともとあまり夫婦仲もよくなかったらしかった。加代はそのことについては、何も言おうとしなかった。ただ、嫁ぐ前はほっそりした少女だった姉が、戻ってきたときは匂うような成熟した女に変身していたのが、平太には妙に艶やかで眩しく感じられた。

二人の他に、馬が一頭いた。名前はイワオといった。

イワオはがっしりした牡の馬で、体格こそ他の馬よりだいぶ小柄ではあったが力はたいそう強かった。田の代掻きなどは楽々とこなし、かなりの荷を背負わせても平然と歩んで見せ、牽かせれば岩をも動かすほどだった。しかも頭がよく、二人の言うことをよく分かって見事な働きを見せた。姉弟には幾ばくかの田と畑があったが、イワオのおかげで農作業はだいぶ助かっていた。二人はイワオをたいへん可愛がり、家族と思って大切に扱った。二人と一頭はひとつ屋根の下で寝起きを共にし、共に働きに出た。

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そのイワオの様子がなんだか変わってきたのが、この三つ月ほどのことである。どうにも落ち着かない様を見せるようになり、ときには何かを耐えているように見えたりもする。それをどうしたらよいものか、加代も平太も見当がつかなかった。なんとかなだめ、すかして、仕事につれてゆくのだが、イワオの働きははかばかしくなかった。

「おねえ、イワオのやつ、いったいどうしんだろうなあ」日が暮れた後、囲炉裏ばたで平太はこぼすように言った。

「どうしたんだろうねぇ」繕い物の針を動かしながら、加代もため息をついた。「今日なんか、いちばんひどかったねぇ。なんだか、癇癪を起こしてるみたいでさ」

「まったくだ。おれ、イワオが怒ってるように見えたよ。こんなんじゃあ、畑につれてっても役に立たないなあ」

「ひょっとして、どこか悪いのかねぇ。病気じゃろうか」針を止め、加代は思案げに言った。

「病気かあ……元気はあるようだけどなあ」平太はぼりぼりと頭を掻いた。「元気は、あるよ。ありすぎるくらいだ。病気なのかなあ」

「病気じゃなけりゃあ……」言いかけて、加代は言葉を切った。「うーん、わしは、お馬の病気はわからんしねぇ」

「おれだって、馬の病気なんてわからんよぉ。どうしたもんかなぁ」

「どうしたもんかねぇ」手元に目を落としたまま、加代は言った。

土間のほうから、イワオががさごそと身動きする音が聞こえた。



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