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2002/07/30(火)

獣姦のシチュエーションは出尽くしているのだろうか。私もなんとなく閉塞感は感じていたので、ちょっとこの問題について考えてみたい。ただ、つねづね知人たちから指摘されるのだが、どうも私の着眼点はふつうとズレていることが多いようだ。なので、他の人にとっては私の考察なんぞ、まったく的はずれの可能性がある。あるって言うか、高い。でもまあ、読んで下さる方の暇つぶしくらいにはなるかもしれないので、やるだけやってみよう。復活のやるだ系(違)。

まず、私が感じていた閉塞感がどんなものなのかを考えてみると、それはどうやら「物語のパターンが、どれもおんなじ」という処にあるようだ。

ほぼすべての獣姦ストーリーは、「なぜ、獣姦などという行為をするのか?」という理由付けから始まっている。実際、ストーリーの半分以上をこの理由付けに費やすことも珍しくはない。そして理由付けが固まったあたりで「いかにして、獣姦に踏み切るのか?」という、いわば初体験の描写に移行してゆく。初体験が終わると「その後どうなったのか?」に続くのだが、これはいわば「オチ」に相当する部分でもある。ある程度以上の長さのストーリーであれば、この「オチ」を発端にして新しくストーリーを展開していくこともあるだろう。

以上を大雑把にまとめれば、「動機の発生 → 行為の実現 → 結末」という流れに一般化できる。

それで私が問題だと思うのは、多くの獣姦ストーリーでは、「動機の発生 → 行為の実現」の部分に比重を置きすぎていないか!? ということだ。当たり前じゃないかと言われそうな気もするが、SMなどを主題にした官能小説では、獣姦ものほど「動機→行為」に重点を置くことはないような気がする。なぜだろう? SMだって異常性愛のはずなのに。

なぜなら、SMは認知度が高いからだ、と私は思う。「サディズム」「マゾヒズム」という性嗜好の存在は、すでにかなり一般的な認知を受けている。だから、わざわざ「なぜSMプレイなどをするのか?」なんて説明は、あまり詳しく行う必要がない。極端な話、「そういう性向があったから」でも通ってしまう。さらに言えば、SMに関しては「ちょっとやってみる」というのも可能だ。「本気で苛めたい/苛められたいわけじゃないけど、ちょっと体験だけしてみたい」というのは、今の世の中、アリなんである。いや、そういうのが「アリ」だからこそ、認知度も高くなったのかも知れない。

獣姦は、そうではない。そりゃ、男性諸氏の注目度はかなり高い(らしい)。しかし一般に認知されているかというと、これがほとんど拒絶状態である。なにしろ獣姦というのは「ちょっとだけ体験してみる」というわけには、いかない。獣姦の場合、体験とは最後まで姦っちゃうことだ。完全にやってしまうか、全くやらないか、の二者択一である。こういうとき、たいていの人間は「やらない」ほうを選択する。だから獣姦というのはいつまでたっても「あまり行われないこと」「実際にやっちゃうのは珍しい(異常な)こと」という位置づけになる。

そういうわけで、獣姦という珍しい行為を描写するためにはまず、「なぜ、そんな異常な行為をしたのか?」という理由を説明しなくてはならないのである。そういうふうに考えてみると「動機の発生 → 行為の実現」にストーリーの大半を費やすのは、やっぱり当たり前だったということになる。

当たり前だろうか。

根がひねくれ者のせいか、私は「当たり前だ」と言うことになると、つい「そうか?」と考えてしまう。

動機の説明をするのは、当たり前だろうか。珍しかろうが異常だろうが「だって好きなんだもん」では駄目なのか。

必ずしもそうではない、と私は思う。そもそも人は、なぜ官能小説などを読むのか。なぜ獣姦というジャンルに興味を持つのか。それは官能による興奮を疑似体験するためではないのか。通常では性交渉を持てない相手との行為に新奇性を感じるからではないのか。

それなら、物語を読むことによって性的な興奮を得ることが出来、性交渉の相手が動物であるということに価値を見いだせるなら、「動機」は2次的な問題ではないのか。(白状すると、これを実際にやってみようとしたのが「やるだ系」の「風の記憶」だった。結果は……いつかリベンジしてやるぅ)

なんだか否定的な実例が出てしまったせいで、ちょっと勢いが弱くなってしまったが、と、とにかく動機の説明はあまり重要ではないんじゃないか、と私は思う。これを思いきりぶっちゃけて言うと「面白けりゃいいんだろ」ということになるが、そんなことゆーてしもたらあんた、面白ければいいのは娯楽全般について言えること。なので、今回はそこまではぶっちゃけないことにする。

なおここまでの論理は、「獣姦ストーリーの大半は、動機付け/実行/結末の3段階で構成される」「獣姦ストーリーの大半は、動機付けに比重を置きすぎる」という2点に強く依存している。それ以外にも依存しているところはあるが。だからどっか1点でも崩れると、その後の論理はすべて崩壊する。あああ、なんて脆弱な論理。我ながらこれは、笑うしかないな。あははははははははは。ふぅ。

おおっと、忘れるところだった。近親相姦ものとの比較、という考察もやったほうが良かったかも知れない。なにしろ近親相姦だって「ちょっとだけ体験」はできないジャンルである。もしかして獣姦物とおなじように「動機付け/実行/結末」の3段階で構成されていないだろうか。……って、結論から言うと、「私の見る限り、確かに3段階で構成されている」。近親相姦のストーリーと、獣姦のストーリーは、非常に似ていると思う。違うのは、認知度の高さだ。近親相姦もののほうが、獣姦ものよりもずっと認知度が高い。この「認知度」っていう言葉、「許容度」ってしたほうが良かったかもしれないなぁ。

なぜ近親相姦ものは認知度(っていうか許容度)が高いのか。実は近親相姦という現象には「恋愛」という前段階が存在する。そして「肉親を好きになってしまった」というシチュエーションは、「ちょっとだけ体験」できるものなのである。ここが、獣姦とは激しく違うところだろう。獣姦の場合、なにせ相手は動物である。心を通わせるのは、人間が相手の場合に比べると、難易度 Ultra Hard である。怒っているか腹が減っているのかを察知するだけでもそれなりの慣れが必要な相手に対して、「あなたを好きなの。わかってちょうだい」「あなたも、わたしを好きなのね」などというコミュニケーションは奇跡に近いのではないか。あ、でも欲情しているかどうかは、わりとすぐ判るなぁ。危うし、我が論理!! でも疲れたので、この方向はここまで。(オイ)

えーと、これだけではちと寂しいので、以下、動機付けのバリエーションについても考察を行ってみる。(疲れたんじゃなかったのか。いや、その、実はこっちのほうに早く進みたかったんですぅ。見逃してー。お願い) ということで、ばーんとォ、いってみよー!!

私の見るところ、獣姦ストーリーで動機として用いられるものには、以下の5つのパターンがある。

  1. 好きになった相手が、たまたま動物だった
  2. 特定の動物種(犬、馬、etc)の魅力に、虜にされた
  3. 禁じられてるからこそ、やりたい
  4. 性欲を満足できるのなら、相手は何でもよかった
  5. やりたくなかったのに、(強制、レイプ、その場の状況などで)やってしまった

コミックスなどでは、たいていは (5) のパターンを中心にして、そこに (4) や (2) などを若干補足したものが使われる。ちなみに「加代の物語」は (2) が主で (4) と (1) が追加要素……というつもりだったが、実際にはちと違っているような(汗)。平太のせいで (3) と (5) が混入してしまったんだな、きっと。もう一つおまけで分析すると「楚清の秘密の日記」は (4) が主で (2)、(3) が追加要素だろうか。

神話だと (2) がけっこう多い。白鳥の美しさに惚れちゃった、とか。

(1) は恋愛物語の延長線上に獣姦がある、というシチュエーション。わりときれいな物語になりそう。

現実の獣姦では「男 × 動物(♀)」が多いんだそうで、その動機は (4) が多いとか。現実に密着しているだけに、使いやすそうなシチュエーションだ。これに (5) が加われば、禁忌を破ってしまう説得力は充分だろう。が、だからこそよく使われるコンビネーションでもある。定番と言っても良いかも。

さすがに (3) を主要素にしたストーリーは、コミックスでも小説でも存在しないのではないかと思う。今、ふと自分なら (3) でどういうストーリーにするかなぁ、と考えてみたが、うむぅ、ぜんぜん思いつかん。「禁じられているからこそ、興味を持ってしまう」というのは、人間の心理としてありがちだと思うが、これを一つのストーリーに仕立て上げるのは……っていうか、これ、タブー侵犯が目的じゃないか。インモラルであること、それ自体が目的。よっぽど気合いを入れねば、書く方の精神が参ってしまいそうだ。読む方も気合いが必要だろう。少ないわけだ。

以上、本日の考察はおしまい。精神力を使い果たした私は、もう寝ます。おやすみなさい。


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