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2003/08/05(火)

「現界への望楼」に「唐物語」を追加。「ブックスの谷」への追加は、かなり久しぶりだ。

この「唐物語」は正本(という言いかたでいいんだろうか)のほうを現代語訳したものだ。対して私が訳した「異本 唐物語」は吉田本と言われるものらしく、各話の配列がまったく異なっており、かつ、内容も若干違っている部分があるそうな。あるそうな、って今では両方持っているんだから見比べてみれば一目瞭然なんだが、面倒くさいんでやってない。

この本の発行年月日は 2003/06/10 となっているが、もちろん実際にはもうちょっと前に書店に並んでいたに違いない。けど最近は、この手の本の棚、あまり見に行ってなかったからなあ。てゆーか、今ごろになって文庫で出されても。一年早く出して欲しかった。去年、この本があれば、私が自分で訳すなんてことしなくても済んだのに。「異本 唐物語」と「古語辞典」あわせて \9,000 くらいは出費している。現代語にするとたった2ページ程度の話を読むために \9,000……。趣味とはそういうものとは言え、なんだかなぁ。

今回、この本(本体価格 \1,350)を購入したので、「雪々」のために費やされたお金は \10,000 を突破した。私の知る限り、もっともコストパフォーマンスの悪い獣姦ストーリーだ。自慢していいでつか。

たった今、ゲームソフト2本分に相当する金額だと気がついた。愕然とした。中古なら FF-X と FF-X2 を買っておつりがくる。

話を「雪々」に戻すが、解説などによると、この「雪々」という話は他の収録話と比べても非常に特異な物語であるらしい。しかし「どのように特異なのか」という点になると、なんとなく解説の歯切れが悪い。そりゃあ、いきなり獣姦物が出てきたらびっくりするだろう。でも本当に問題なのは「なぜそんな話が収録されているのか」「原作者(藤原成憲とされている)は何故こんな話を収録しようとしたのか」だろう。解説ではそこら辺がはっきりしない。

獣姦(または獣婚)というのは、たしかに異常な行為と言えるかも知れないが、かといって唐物語のような説話集で取り上げるとき、何故に「獣姦」でなければならなかったのか。親殺し・子殺しとか、食人とかでは駄目だったのか。あるいは、唐物語に収録されている話には愛憎劇が多いので、その一変種として獣姦を取り上げたのかもしれない。が、それなら近親相姦でもよいではないか。……って、鎌倉時代当時の近親婚に対する意識がどうなのか、よく調べないで言ってるのだが。でもさすがに母子相姦あたりになるとタブーになるんじゃないかなぁ。それとも、極限的なタブー行為を題材にしたかった → 獣姦がそれに相当した、ってことかな? それなら判らないでもない。

唐物語に収録されている全27話のうち、25話までは漢籍に出典を求めることが出来るそうだ。残り2話のうち「張文成」は、中国から伝わった「遊仙窟」という書物を媒介にして、唐物語の世界と日本を結びつける仕掛けが見られるという。

で、問題の「雪々」だが、

第二十七話は和書にも類例を見ない物語で、話自体にも中国的要素が無いが、主観的感情と客観的視点の間で揺れる主人公の姿は、この物語自体の性格に通じるものがある。

-- p.380 より引用

だそうである。

解説ではそれ以上詳しく言ってくれないのだが、そこをもう少し踏み込んで可能性を考察してくれるのが解説ってもんではないのか。それでは私が教えて君なだけだろうか。別にいいけど。

だいたい上のような一文だけでは、つまるところこう言っているようなもんだ。「このお話は唐物語のなかで浮いてます。出典を辿ることもできないし、ミスマッチもいいとこです。こじつければ関連性だけは見て取れますが。そんだけ」

はあ、そうですか。それで読者はどうしたらいいですか。放り出されちゃったみたいで、なんか途方に暮れるんですけど。

そもそも、そんなミスマッチな話が、なぜ説話集に紛れ込んでいるんだろう。これって結構大きなミステリではないのか。そこんとこ、もっと色々研究されてもいいはずではないのか。色々研究されてるなら、もっと解説が多くなるはずなんじゃないのか。てことは研究してないのか。ミステリ放置なのか。

しょうがないので、私が勝手に推測することにする。

まず「雪々」の出典であるが、無い(断言)。ただし、娘が犬と契る話は、四国・奄美地方に広く分布しているそうなので、そういうのを元に誰かが自分で物語を作って唐物語に追加したのではないかと思われる。その「誰か」とは原作者(藤原茂憲?)かも知れないし、後で唐物語の原本を入手した人物であるかも知れない。俺電波によると、全ての写本で収録されていることから、たぶん藤原茂憲自身であろう、とのことだ。すなわちこれは、藤原茂憲のジサクジエン行為である。

問題はなぜ獣姦に題材を求めたかだが、やはり愛憎の迷い、その極限として「人と獣の交わり」を認めたのであろう。唐物語は説話集であるから、結局なんでもかんでも仏教の話に結びつけられてしまうのだが(と言いつつ、私は「雪々」以外の話はぜんぜん読んでない。解説もとばし読み。だからこんな推測、信じてはあかんよ)、「雪々」でも最後には「因縁であるから〜」とされてしまっている。迷いの極限ですら因縁なのだ、と説きたいのかも知れない。

それにしても「雪々」の内容は、やはり異色であろう。異色と言うより異様と言ったほうがよいかも知れない。

題材としての獣姦が必要だったにせよ、そこに登場するヒロインが2人というのは、どういう理由によるものだろう。何故、1人の娘が犬と契る話ではいけなかったのだろう。獣姦が重要だとすれば、あえて娘を2人登場させる必要は無い。しかも娘の1人は貴族の娘のようだし、もう1人のほうは、その乳母の娘である。わかりやすく言えば「姫君とその侍女」なのだ。作者の趣味が入っていたとしか思えない。

物語中では、まず侍女が陥落する。次に姫君が侍女の異常に気づき、行為をのぞき見ることになる。そしてその光景に触発され、姫君もまた獣との交合いに身を堕とす。

言っておくがこの姫君は、ただの姫君ではない。男なんかフケツ!! 結婚なんてとんでもないわ!! という姫君で、結婚を押しつけようとする両親縁者から逃れるために鳥も通わぬ深山へと逃げてきたという、極端すぎるほどの潔癖性なんである。それに付いてきた侍女もまた、しかり。

男を遠ざけるために、結婚から逃れるために、純潔でありつづけるために世を捨てた2人なのだ。それが、ふいと紛れ込んできた犬になつかれ、あれあれと思う間に心乱れて、純潔を失い、契りを交わし、ああ愛おしい、と思うようになってしまうのである。高貴にして汚れ無き姫君と侍女。しかし心通わせる相手も他にない環境に置かれただけで、人ならぬ獣と通じて歓喜する牝に、自ら墜ちた。普通に暮らしておれば佳き相手と結婚できたものを、純潔を貫き通すこともできずに、そのなれの果てが犬畜生の愛妾である。お高くとまっていたくせに、ひと皮剥けば、獣にでも身をまかせる女だったとはな、この牝どもが。いいとも、たっぷり相手してやんな。ああ、犬の身で人の女と姦れるなんて、めったに味わえない珍味だぜ。ほら2人がかりでご賞味していただきな。お前らの価値なんて、それでやっと牝1匹分だ。あぁ、いいねぇ。味くらべだ。迷い犬の俺が、こんな贅沢が味わえるなんてなぁ。ほらほらどうした、俺を悦しませてくれるんじゃなかったのか。お前らが嫌ってた「交合い」ってのがどんなもんなのか、俺に教えてくれよ。「結婚」のどこがそんなに悪いのか、身をもって説明してくれよ。ふう、でもさすがに毎日だと飽きちまうぜ。なぁに心配するな。ここは人里離れた山深く。獣ならたくさんいるぜ。一生かかってもお相手しきれないほど、な。

これは、そういう物語でもあったのかも知れない。はぁはぁ。別に変な息じゃないぞ。一気に書いたからちょっと息切れしただけだ。

後半はかなり私の趣味が入ってはいるが(てゆーか創作そのものだろ)、わざわざ2人がかりで犬に契らせてしまうあたり、原作者にもそういう嗜好があったのではないだろうか。とは言え、さすがそれを唐物語の一編とするのはためらったに違いない、と私は推測するのだが。きっとこれは、原作者が自分のために書いといた作品だったのだろう。ところがそれが、死後、なにかの手違いで唐物語に紛れ込んでしまった、というのが真相ではなかろうか。(大妄想)

「雪々」の読みは、いまだに知らない。


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