道の真ん中で、デジカメで写真を撮っているガキがいた。数歩あるいては立ち止まり、デジカメを構えて自分の前方を撮影する。撮影するとまた数歩あるき、また道の真ん中で立ち止まってデジカメを構える。都会にはめずらしく、真っ青な空が輝いているような朝のことだった。出社時間に間に合うようにと急いでいる私にとっては、甚だしく邪魔だった。
「キミ、何やってんの?」
まあ特に何か考えがあったわけではなかった。ただ、ちょっと注意してやろうかと思っただけだ。
「あ、はい、あの……」高校生、いや、まだ中学生だと思う。あどけない顔立ちの、学生服を着た子供だ。「写真を撮ってます」
「うん、それは見ればわかるけどね……」
「これ、僕の目なんです」デジカメを指して、少年は思いがけないことを言った。「そうなんです。だから、こうやって……」少年はデジカメを私に向けて、カチリとシャッターボタンを押し込んだ。「僕の代わりに、世界を見てもらってるんです」
「そうか、キミ、目が……ええと、そのう……」
「いえ、僕、自分の目はちゃんと見えてますよ」かちんと来ましたが、何か。「でも、いつ見れなくなるかわからないですから」いや、目の病気なのかも知れない。「今は元気ですけど、人生って何があるかわからないですし」あるいは、ただの哲学かぶれとか。「この風景だって、もう二度と見れないんですよ」もしかして電波?「そう思いませんか?」
「いや、別に……」
「そうですよね」少年はにっこり笑った。「でも、変わってから思い出そうとしても、もうその風景は無いですから。だから、僕、今のうちに自分の目が見たはずのものを撮っておくんです。今日の、朝の、この位置で、この僕が見たはずの景色を」
「ああ、わかった、わかった」電波だな。電波に違いない。「うん、あまり他の人の邪魔にならないようにね。うん」
言い捨てて、私は少年に背を向けた。もう遅刻しそうだ。かかわんなきゃ良かったな。
それにしても、と私は思った。やってることは奇天烈だが、考えようによっちゃあ深いセリフを吐きやがったな。“変わってから思い出そうとしても、その風景は無い”なんてな。ま、もしかすると、わざと意味深なセリフを吐いて他人を困惑させようとか、そういった悪戯なのかも知れないが。最近のガキは、なんでもネタにするからなあ。
仕事の納期が迫っているせいで、その日は一日中忙しかった。会社を出たのは、ほとんど深夜になってからだった。粘土のようになった頭を肩にのせて、私はとぼとぼと家路をたどっていた。
ここだったかな?
ふと、私は足を止めた。今日の朝、少年がデジカメを構えていた場所だ。湿気のこもったスモッグが空を覆って、星も夜空も見えない。装飾過剰な街頭が、そっけないアスファルトを照らしている。
私はぼんやりとあたりを見回した。朝のあの出来事が、なんだかずいぶん昔のことだったような感じがする。もう青空は見えないし、建物の壁も朝日を照り返して輝いていたりはしない。空気はじっとり澱んで、ときおり疲れたような車のエンジン音が向こうの大通りを過ぎてゆく。
私は振り返った。そこにあるのは、いつものように何の変哲もない夜の風景だった。ただ、朝ではないだけだった。
きびすを返し、私はふたたび家路についた。明日になれば、また朝が来る。また晴れれば、今日のように気分の良い朝になるだろう。もちろん晴れるかどうかはわからないし、晴れたとしてもまったく同じというわけには行かないだろうが。まあ、それは仕方がない。世界というのは、少しづつ変わるものなのだから。日付が変わり、季節が変わり、年が変わる。出来事が変わり、人が変わり、建物が変わる。天候が変わり、風景が変わり、そしていずれ世界が変わるのだ。そういうものなのだ。
ちょっとだけ寄り道をして、私は家に帰った。
「あのう……」
「はい……? あ、これね、これはね、写真を撮っているんですよ。このデジカメはね、私の目なんです。私が今日、いま、この場所で見たものをね、私の代わりに見ておいてもらってるんですよ。いや、別に目が悪いとかそういうわけじゃ無いんですがね……」
ま、普段よりちょっとだけ早起きしただけのことだ。こんなのも、たまにはいいだろう?
Fin.